平成最後の桜の散り際に「花は散るから美しい」と
私ことマサミが雨降り以外は、ほぼ毎日歩くウォーキングコースの一つに関川沿いの桜並木があります。
今、関川には平成最後の桜が散って花筏となって流れています。
ウォーキングコースからほんの少しはずれたお寺の正面に「花は散るから美しい・・・」と書かれた板書がありました。
もくじ
花は散るから美しい 人は死ねるからありがたい・・・
この「花」は今日、明日にも雨が降れば、全ての花びらが散って葉桜になろうとしている、関川の桜の花を指すのか、それとも仏教の法話で良く話題にのぼる彼岸花を指すのか、私にはわかりません。
しかし、人はその時々の心理状態によって、同じ事象を受けても全く異なる受け止め方をすることがあると思います。
そういった意味で、桜の花の散り際の今、まさにこの時に、このボードの文言を見たマサミには心に強く響くものがありました。
上記の板書の内容を読み上げ音声でも再生できるように、下記にテキストにしました。
花は散るから美しい
人は死ねるからありがたい
その命の行き先が定まっていることが
なおありがたい
と、黒い板に白色の毛筆で書いてあります。
誰の文言?正しい解釈がわからない
上記の言葉の由来などを調べてみたくなり、ググってみました。
まず、前文をググってみましたが、ドンピシャリやそれらしきものはヒットしません。
そこで、最初のフレーズの「花は散るから美しい」で検索してみますと、室町時代に能を大成させた世阿弥が記した能の理論書、風姿花伝(ふうしかでん、風姿華傳)からの由来らしいことが伺えます。
風姿花伝で世阿弥は能の魅力を「花」に例えています。
世阿弥は人生における年代別に能に取り組む心構えや姿勢、成すべきことを説いています。
言い換えれば、その年代、その瞬間、時々を一生懸命生きる事が美しいということなのでしょう。
ただ単に、散りゆく花に人生の無常を投影するのではなく、花の散ることを「前向き」に捉えていると言えます。
このような考え方は、武士道に相通ずるものがあると思います。
なお、この章の冒頭で「彼岸花」かもと書きましたが、正式には彼岸花は「すがれ」「しおれ」「萎える」などと表し、「散る」という表現は使いません。
同じように梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、菊は「舞う」という表現をします。
ですから、板書の「花は散る」はまさに桜なのです。
人は死ねるからありがたいの出典は?
次に「人は死ねるからありがたい」をググってみましたが、これもドンピシャリは有りませんでした。
関連ページの中で、最もうなずける解釈は(表現の違いは多少あるのですが)死は必然であって、死ぬこと自体は不幸でもなければ幸福でもない。
あえて、言えば(他の人たちと同じように、誰もが)死を迎える事ができるのは、幸福と言えるのではないかという解釈にたどり着きました。
命の行き先が定まっていることがなおありがたいの意味は
次に「(その)命の行き先が定まっていることがなおありがたい」ですが、これは蓮光寺様の 「浄土に生まれると確信できた時、その人はそこで生まれ直すのです」(五木寛之)というページに行き当たりました。参考:http://www.renkoji.rexw.jp/base5.html
浄土真宗など、仏教の宗派においては「お浄土」という世界観がありますからね。
まとめ
板書に書いてあった言葉そのものの、正しい解釈は判りませんでしたが、マサミが考えるには「桜も人も(万物全て平等に)終わりが有るからこそ、有り難い。後悔が無いように生きている一瞬を大切にして一生を全うしろ!最後はみんな同じなのだから・・・」というのではないでしょうか?
別の考え方になる科と思いますが、外国の哲学者で「人の死は一巻の終わりを意味する」と言った人がいます。
一巻の終わり・・・すなわち、全てが無になる・・・ということ。
これはこれで、短く、いさぎよく、かえって「生きている今のうちに・・・」と発奮させてくれる言葉でもあります。
いずれにしても、今日は自分の人生と真正面に向かい合い、人生を深く考えなおす良い一日となりました。 マサミ